外で食べるご飯について
突然だがキャンプはいいものだ。
外で食べるというだけで飯は格別においしくなる。
私がまだ大学生の頃、自転車でオーストラリア旅行をした頃
日々、自転車で行ける距離に宿がないためだいたい毎日テント生活であった。
そこでクッカーを使って作った米やレトルトのスープは
とても美味しかった記憶がある。
明かりもないので太陽のリズムで生活をするのはとても気持ちが良いものだった。
当時は海外で使える携帯電話も持っていなかったので自転車をこぐ以外にすることといえば、本を読むか日記をつけるか、後は電池で動くポータブルプレイヤーで音楽を聞くことくらいしかなかった。
そんな中で夜のご飯というのはとても楽しいイベントでもあった。
ヌテラのチョコスプレッドだって今はとても甘く感じてしまうだろう。
そういえばなぜオーストラリアに行くことになったのだろうか。
そこに明確な理由はなかったはずだ。ただ何か変化させなければという意志があったのは 確かだ。初めての一人暮らしと東京での生活にやはりどこか馴染めていなかった。
日々やることも遊ぶ相手もいたが、やはりどこか落ち着かなく、自分の街という感覚はずっとあった。それはきっと多分東京を離れる最後の日まであった。
なんとなくの違和感というものが私にはモヤのようにまとわりついていた。
そんな状況でたまたま自転車でオーストラリアに行かないかとの話を先輩からされ半ば勢いで旅行を決めた。あまり絡みのない先輩であり、周囲のみんなは驚いたであろう。
私も今となってはなぜその先輩と行ったのか驚いている。
空港へ向かう時間や飛行機の中で何を話したかなど今となっては全然思い出せない。
なんなら滞在中の思い出すらもあまり思い出せない。
オーストラリアで一緒に自転車旅行をしたとなればとても深い仲になりそうなものだが
帰国後それほど深い付き合いをすることはなかった。
今思えば私はとても子供だったのであろう。
あの日で私は何か変わったのだろうか。人格を揺るがすような強烈な思い出も何も残っていない。結局行く前と後で何も変わっていないような気がする。しかし、それは行ったからそう思えるだけなのではないかとも考える。
ただ、何もやらないよりはとりあえずやってみるのもいいのではないかと思う。
もう一度あの時のあの状況であれば、やっぱりオーストラリア行きを決めるような気がしてならない。きっと当時の私は何か変化を必要としていたのだ。どうにか自分の人生を世界になじませる必要があったと思うのだ。とりとめのない文章になってしまったのでこの辺で。